2010年06月28日

もう一つの平家物語と移動した地域神話―緒方家の蛇聟入:愛媛編F

 実は旧広見町にはもうひとつ、ある庄屋さんにまつわる、このタイプの伝承が残っている。
 「緒方という庄屋の家の娘のところに毎晩、男が通ってくる。娘の親が不思議がって、針に麻糸をつけて、着物の裾につけておく。翌朝たどって行くと池の中に。男の正体は、蛇の主。娘は蛇にとられて死んでしまう。娘の葬式の日、雨が降っていたが、蛇のみという傘をさすとやむ。それ以来この庄屋の子孫の背中には鱗が三枚ついている」(関敬吾『日本昔話大成 2』角川書店、昭和53、23頁)。
 愛媛編Dで紹介した、吉波の庄屋と関係あるのだろうか、次の伝承は、吉波のすぐ近くにある現宇和島市、旧三間町兼近の伝承である。
 「おがたに、そこに嬢様がございましてな、おがたいうたら昔から大きな家ですから、嬢様がおりましたところがその嬢様に好きな男の人ができましてな。それがその内方の人は知らんのでございますが、毎晩なんやそうです。おそうに、袴をつけたりしてりっぱな人が来るんですと。その人とその嬢様と心安うなって、そして何やそうです、来よりましたところが、今晩お腹がふとりましてな。そして生んでみましたらなあし、いよいよもう、蛙があのおもしろいものを、こうこう、蛙、子うこしらえる、おもしろい、ぬるぬるしたものがありますが、そうおたまじゃくし、あれがかえる前に。そういうものがたらいいうものにいっぱいできまして、子じゃあありませんじゃと。そしてその嬢様が難産でなあし、死にました。よく調べてみましたらおがたいう大きい家ですけに、そこに大きい淵を、池を掘ってありまして、そこに住んどる主じゃったといいましてな。そしてよく調べてみたらこの池の主じゃったと。そしてそれが禍をなあし、やっぱりするんでしょう。そしてまあその淵へ正月の元旦という朝は、雑煮を炊いて、おもちを大きいお釜にいっぱい煮いて淵に投げこんでそれで因縁をなあ、しとかれたそうないうことです。昔から伝えられています。昔話ですが」(稲田浩二・小澤俊夫編『日本昔話通観22(愛媛・高知)』、同朋社、1979、27頁)。
 私は、吉波の地元の人に、このあたりで緒方という庄屋さんはありましたか、と聞くと、それは野村町だと言われました。そこで今度は現西予市、旧野村町に行ってみました。すると次のような伝承に出会いました。
 「昔々、野村と言う所にな、それはそれは情深い御庄屋様野村の緒方家.JPGがあったそうじゃ。御庄屋様にはな、たった一人のきれいな娘さんがあった。もうお年頃のな、そろそろお婿さんをもらう話が出はじめたそうな。皆んなが「あの人はどうか、この人はどうか」といくらすすめても、娘さんは頭をたてに振らん。ところが娘は様子がおかしくなった。お腹も一日ごとに大きくなりはじめた。父は娘を呼んで事情を聞いた。娘は「私はもう半年も前からすきな人が出来ました。その人は毎晩夜中に私の部屋へ逢いに来てくれます」と答えた。父は蟻一匹入らぬ部屋におかしいと思った。そこで女中を呼んで、娘の部屋を監視することにした。女中は娘の部屋のふすまに穴を開けて監視していたが、夜中になるとねむくなる。ある日夜中おしっこがしたくて目を覚まし、部屋をのぞくと、大蛇が部屋いっぱいにとぐろを巻いていた。女中は次の日父に報告した。父は驚いたが、誰にも言わぬよう指示し、娘を呼んだ。娘に訪ねてくる男はどこの誰か聞いたが、娘は知らないと言う。緒方家地図.JPGそこで、父は今度聴いて言わなければ、男が帰る時、着物のすそへ黒い糸を結び付けて、自分で男の住所を探すよう教えた。夜が明けると娘さんは男の住所を知るために糸をたよって行くうちに、次第に顔の色が変わり始めた。その野村と言う村にはな、大きな川が流れていて川上に宮ん渕と言う大きな渕がある。糸はその淵に入っていた。男はそれ以来こなくなった。生まれた赤ん坊の背に三枚の蛇の鱗の跡が残っている。この淵に行き手を三つ叩くと小姓が出てくる。小姓は玉を娘に与え、子供になめさせるように言う。その玉は大蛇の目玉で、今もこの淵の大蛇はめくらだという。子どもの鱗を除きたいと娘が蛇に頼みに行くと娘の家の紋所を鱗の紋にすれば背中の鱗の跡は消えると蛇が教える。そのあとこの家は益々栄え何百代も続いているということだ」(兵頭茂『里の昔話』(第二集)昭和53、147〜152頁)。本文は長いので省略して書きました。
 さて、最初と二番目の伝承は、はっきりと「緒方家」と言っていますが、最後の伝承は、庄屋としか伝えていません。話型は、最初と最後の伝承が、苧環型で子供出世型と思われます。最後の伝承ははっきりとその後、家が繁栄したとありますから、生まれた子供が出世したことを示しているのでしょう。最初の伝承は、娘は死んでしまったようですが、子孫は鱗が三枚あると伝えていますので、やはり、子供が生まれ、少なくとも何代かは続いているのでしょう。二番目の伝承は、苧環型が語られず、たらい子型となっています。ですが、緒方という大きな家の話です。
 愛媛編@でも土佐窪川城の娘の話を紹介しましたが、それはどうも伊予の河野氏であるとも書きました。で、その河野氏は豊後の緒方家とも関係があると言いました。群馬編や新潟編でも紹介しましたが、この緒方家とは、『平家物語』に出てくる緒方三郎のことだと思います。緒方三郎にも鱗が三枚あり、そこでも苧環型が語られ、出世します。
 そこで、旧野村町にある図書館で、野村町の緒方家の緒方家と宮ん渕?.JPGことを調べてみました。するとこの緒方家は、豊後の国、緒方惟義の末孫で、弘治三(1557)年に宇和島に渡海し、野村、白木城に住んだとあります。その後、藤堂家に入り、野村で緒方家を継承し、代々伊達家にに仕えたとあります(野村郷土誌編さん委員会編『野村郷土誌』愛媛県東宇和郡野村町中央公民館、昭和39、139〜152頁)。惟義とはまさに、緒方三郎のことです。
 この緒方惟義は豊後に九世紀に移り住んだと言われています。そして16世紀に宇和島にやってきて、野村に定着するわけです。その時に、はやりこの地域開拓の神話を持ち込んだのでしょう。新しい土地に定着するとき、この神話を使うのは、三輪の大王家も同じだったと思います。
 現在の緒方家も大きな家(写真)で、川との間に龍王神社があります(地図)。その前にある渕が宮ん渕なのでしょうか(写真)。地元の人達はもうそのことは知らないようでした。(文・地図・写真:佐々木高弘)
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2010年06月27日

鬼北町の蛇王滝の神話:愛媛編E

 鬼北町、旧広見町にはもうひとつこのタイプの伝承があります。庄屋さんの話で、滝が蛇の棲家で、非常に似ているのですが、場所や話型が違います。
 「成川渓谷の入り口の蛇王滝にまつわる話じゃ。蛇王滝地図.JPG昔、庄屋の娘さんが、奈良川堤で散歩をしておると、一匹の蛇が蛙をつかまえて、まさに飲み込もうとしておった。娘さんは、「かわいそうに、逃がしてやってよ。そのかわり、私がお前の願いを何でも聞いてやるから。」と言いますと、蛇は蛙を放して、逃がしてやった。それ以来、蛇は、美しい若者に化けて、夜毎日毎に庄屋の近くに現れて、やがて娘も、その若者を美しいと思うようになった。たくさんの候補者の中から、素性の知れないこの若者が気に入られて、聟に決まったわけじゃ。間もなく、娘は妊娠し、月足らずでお産をした。産まれた子は人間の子ではなくて、数珠つなぎになった蛇の子であったそうじゃ。それがもとで娘は病気になり、命もあぶなくなった。ある日、見知らぬ男が現れて、「蛇王滝の上の椋の実をとって、煎じて飲めば、病気はきっとなおります。」と教えてくれたので、蛇の夫は、妻の命には代えられんと思って、蛇王滝の上の椋の実をとりにいった。するとその男は、「私は、あなたに助けてもらった蛙です。」と言って、目の前で蛙になって、「これが、その時の歯型です。」と、背中の傷を見せた。そして、「今、あなたの聟さんになっているのは、蛇王滝の蛇の化身です。しかし、もう、蛇の聟さんは帰ってこないから、安心しなさい。」と言い残して帰って行った。一方、椋の実をとりに行った蛇聟は、木に登って、てっぺんの実をとろうとして、枝が折れて、まっさかさまに蛇王滝に落ちてしまった。三年間も人間に化けていたために、蛇に変わる秘術を忘れてしまい、そのまま水に溺れて死んでしまったということじゃ」(岩瀬博『広見今昔物語』広見町、平成3、13〜14頁)。
 同じ町で庄屋さんの話なので最初は同じ伝承のバリエーションかと思っていたのですが、やはり現地で確認すると違うものでした。伝承されているのも前回の吉波からは少し離れた、芝というところですし、庄屋の娘さんが散歩をする奈良川というのも吉波からは離れています(地図)。
 話型は、よく考えると苧環型は語られていません。蛇王滝.JPG蛇の子を誕生させています。助けた蛙に救われる話型を、蛙報恩型と言います。蛇が木に登って落ちる話は、鷹巣型に近い伝承です。このように旧広見町には様々な話型が存在しています。
 蛇王滝は、前回の鮎返り滝の近くですが、盆地から落ちる滝ではなく、盆地へそそぐ滝です(写真)。地形的には、奈良川流域の伝承の方が鮎返り滝がふさわしいように思います。なぜなら、まさに奈良川が鮎返りの滝となって宇和島市へとそそいでいるからです。つまり排水の形になっているからです。吉波は少し排水には無関係とはいいませんが、直接的でないように思います。反対に、蛇王滝は盆地へそそぐ滝ですから、雨乞いにいいように気がするのですが、この伝承では雨乞いは語られません。吉波の庄屋と、奈良川の庄屋で何か歴史的に領土問題でなにかあったのかも知れません。結論を出しにはもう少し、調査する必要があるようです。(文・地図・写真:佐々木高弘)
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2010年05月10日

雨乞い伝承に変容した地域神話:愛媛編D

 前回の話もそうでしたが、美男子に化けた大蛇が通う家は、その地域を最初に開発したような、古い家であったり、大きな家であったりすることが多いのですが、愛媛県では特に庄屋が多いことに気づきます。庄屋というと何となく江戸時代の権力の末端のように思い、藩の命によって一番大きな農家がその役割を仰せつかっているのではないかと思ってしまうのですが、実は中世以前の豪族で戦国期に没落し、幕藩体制になってから庄屋になった家が結構あるのです。だから本来は地域を開発する英雄の話が、その家を対象に語られているのでしょう。したがって、伝承の時代はもっと古いものだと考えた方がいいと思います。
 次に紹介する、現鬼北町、旧広見町の伝承も、庄屋さんの話です。
 「吉波に、お庄屋さんがありますけんな。今でも家が残っておりますが、昔、そこのお嬢さんが、鮎返りの、鮎返りのというのは、今、宇和島の水源地になっております柿原の奥の谷ですがな、鮎返りの滝.JPG宇和島の方へ降りる谷にある滝ですが、そこに昔、蛇が住んでおって、そしてそれが夜な夜な美少年に化けて、お庄屋さんとこのお嬢さんのとこへ通ってきたそうです。そして、どうしてもどこの者とも、名も言わんので、不審に思うて、お嬢さんが着物のすそへ赤い糸をぬいつけて帰したそうです。そうして、朝、その糸をたどってゆくと、鮎返りの滝に住んどったのですら。そんでまあ、わかってなし。そんでどうしたか。まあ、娘さんに会わさんようにしたそうですけんど、とうとうその蛇の執念で、お嬢さんがとられましてな。そして親が、「どうか、もう一度見せてくれんか。」と言うて、鮎返りの滝に行ってなし、お願いしたそうです。そしたら、蛇がが、お嬢さんを角の上にのせてな、淵からさしあげて見せたそうです。そういうような因縁があって、吉波の人は、旱ばつになって雨が足らんと、鮎返りへ雨乞いに行きよったそうです。吉波の人は、行く時は、もう、みのとかさと持ってなし、何ぼ天気でもみのとかさを持って、雨乞いに行ったそうですらい。そうすると、必ず、あの霊験があって、雨をもろうて返ったそうですがな。今はそがいな、非科学的なことは言わんので、なんぼ照っても、水に困っても、雨乞いやなんかはせんようになりましたがな。私等の若い頃までは、まだ、仙人踊りも大本神祭というのもありましたがなし」(岩瀬博『広見今昔物語』広見町、平成3、12〜13頁)。
 この伝承にもいくつかのヴァリエーションがあります。例えば、吉波の庄屋とありますが、具体的に名字まで語る伝承があります。また庄屋ではなく、太夫や山法師とする伝承もあります。訪ねて来る男も美青年である場合が多いですが、僧とする伝承が一つあります。あとはほとんどが同じです。
 この伝承は、苧環型ですが、最後に娘が子どもを産むのではなく、鮎返りの渕に入ってしまうことになります。親が願うと一度だけ蛇が娘を持ち上げて見せます。ここには伝承されていませんが、その後、娘は蛇へと変身するのでしょう。最後に雨乞いの話がつけ加えられています。別の伝承では、村人たちの近年の体験談として次のように語られています。
 「昭和五年七月、五十日余りも雨が降らず、日照りが続きました。村の人々は雨乞いのため千人踊りをしたり、高い山で火を焚き、お清の墓.JPG雨を待ったが、雨らしい日はありませんでした。来る日も来る日も青い空を仰いでは、溜息を漏らすばかりでした。植え付けて間もない稲田は白く乾き、稲の葉先は萎れ、枯死寸前の状態となりました。この時、吉波の人達は、晴天に蓑笠を冠むり、鍋や釜を提げ、食糧を背にして、黙々と山を越え、宇和島市柿原にある鮎返りの滝へと急ぎました。三日二夜、一睡もすることなく、鐘と太鼓を打ち鳴らして、ナムアミダブツ、ナムアミダブツを口々に唱え、滝の龍神に必至に祈願を続けました。三日目の夕方、白い一匹の蛇が、滝を登って行くのを見ました。やがて、空は俄かに曇り、大粒の雨が大地をたたき、雷明轟き、雲は低くたれてしのつく雨となりました。一同は小踊して喜び、涙を流して竜神の加護に感謝しました。この事があって、この年の九月、御堂建立の話が盛り上がり、近郷の人々から、次々の浄財の寄付や材木の寄贈があって、吉波カシヤの森に立派な御堂を建て、八大竜王を祀る明竜神社も建立して、信仰を続けています」(好藤地区ふるさとづくり推進委員会編・発『私たちのふるさと』、昭和56、45〜48頁)と。
 この伝承では、この後、蛇聟入・苧環型が語られます。動竜様の墓.JPG
 まず伝承で語られている場所を知るために、鬼北町役場へと向かいました。教育委員会で聞きますと、色々と方々にお電話をかけて頂いて、地域の歴史に詳しい、好藤公民館の館長さんを紹介してくれました。館長さんは今度、地元の詳しい方を紹介してくれます。フィールドではこのように、色々な人達のお世話になることが多いです。私を含めてこの4人で伝承地を回りました。
 庄屋さんの家を確認し、先の伝承にあった八大竜王を祀る明竜神社(写真)を見、いずれの伝承にも見られない、動竜様の墓も案内してもらいました。その墓は相当古いものです。伝承のなかには、「今から350年前のこと…」とありますが、発行年から計算すると1600年代の初頭ぐらいですから、江戸初期か戦国末期の頃を指すのでしょう。墓はもっと古いもののように思えました(写真)。墓の裏には山があり、そこには山城があったとのことでした。地元の方の話では、雨乞いはこの明竜神社で行い、その後、鮎返しの滝でも行ったとのことでした。
 鮎返しの滝(写真)はこの地区からは少し離れているので、車に乗って一人で行くことにしました。非常に以外だったのは、この地区から流れ落ちる滝だったことです(地図)。鮎返りの淵地図.JPG多くの場合は、滝はその地域よりも標高の高い場所にあり、その盆地のそそいでいるというイメージだったのですが、全くの反対だったわけです。
 初めはなぜこのような滝に雨乞いに行くのだろうと疑問に思いました。なぜなら、滝から水が出たとしても、その地域には直接は水がいかないからです。しかしよく考えてみると、雨乞いなのではなく、この話の本来のかたちは排水であることに気づきました。それは前にも何回か紹介していると思います。
 盆地に溜まった水を排水し、可耕地として整備する。それが稲作民にとって最も重要な開発事業だったろうと思います。そのように考えると、この滝から大蛇が来た理由が納得できるのです。(文・地図・写真:佐々木高弘)
posted by ミス・ジオ at 11:16| Comment(5) | フィールド・ノート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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